小麦のしねまちゃんぷるー
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2008年3月2日(日) 2月後半に観た映画
ちょい、不作。
「エリザベス・ザ・ゴールデン・エイジ」★★
「サハラに舞う羽」と2作連続で、シェカール・カプール監督に「スカ」された。「サハラ」は途中まで、戦争と友情のはざまで悩む人間を描いておきながら、最後には「軍人だから」という行動原理で、煩悶したことすらチャラになっていた。「エリザベス」も処女であるべき女王の立場と、女として誰かに愛されたいと願うことの矛盾に悩みながら(そして途中までその描写はイイ線行っているのである)、最後には「女王だから」という行動原理で、悩んだことすらチャラになってしまう。実話ベースとはいえ、すごーく消化不良なんだよなあ。メアリ・スチュアートをサマンサ・モートンが演じているのが私のツボでした。ベス役のアビー・コーニッシュが、美人です。
「アフタースクール」★★
観客をダマしてやるという語り口の凝りようばかりが先行して、物語がすかすか。悪玉の野望(これも政治家がらみということは示唆されるが、具体的には何も明らかにされない)がチャチ過ぎて、盛り上がりと緊張感にかける。男達が守り抜きたい女優陣が常盤貴子と田畑智子っていうのも、いかにも地味ですよねえ。
「恋の罠」★★★★
大好きですわ、こういう脳天気なエロ満載の映画。一応、文芸作品の体裁を取っているが、クライマックスに奸計をしかけた側としかけられた側が、純愛を告白して終わり、じゃないところが、これまでの韓国映画と一線を画している。あり得ない体位をまじめに研究するときに出てくるCGの小人さんや、主人公が流刑地で暇つぶしに描く四十八手のパラパラマンガがツボでした。ハン・ソッキュって、「明」の引き出しも持ってたんですね。
「悲しみが乾くまで」★★
スザンネ・ビア監督は強迫的に同じモチーフを反復している。物わかりのいい優しい、高収入な旦那がいながら、実は不良っぽいダメダメなオトコが好き、な女性が主人公。で、この状態で不倫に突入する勇気がないものだから、いっつも物語の途中で旦那の方を、事故や病気の設定で、監督が殺してしまうわけです。すごいね。山田洋次の「母べぇ」と同じ構図だ、と怒っていたフェミニストの友人がいましたが、私は女の監督がこうした物語を繰り返し描くのは、ただ自分の欲求に正直なだけで、山田洋次の映画ほど不快には感じない。ヤク中の離脱期で、よだれを流し、三白眼になって苦しむベニチオ・デル・トロに「素敵よお、お兄さん!」と、客席でもだえました。デル・トロ祭りとでも言うべき映画でしょう。
「地上5センチの恋心」★★★
極めて良心的で良質な映画。ベタな人物描写にベタな展開。主人公の造詣も、こういう人が目の前にホントに居たら、「カマトトぶるのもいい加減にしてほしい」と思ってしまうかもしれないけど、カトリーヌ・フロが演じると、不思議と可愛いんです。フランスとベルギーの間の「洗練格差」を前面に押し出しながら、いやみがない。
「光州5・18」★★★
光州事件とは何だったのか、を総括した劇映画。一応、予備知識なしでも、無辜の民を殺した軍に対し、民衆が蜂起したという骨格はわかるし、主人公たちに感情移入ができる。でも、全羅道が韓国の中で搾取されてきた地域だ、ということがわかっていないと、主人公たちの怒りの鋭さ、絶望の深さには十分入り込めないだろうなあ。日本でいうなら、青森の六ヶ所村のような国策によって搾取されるしか仕方がなくなってしまった場所で、国民意識の統合のために、謀略事件が仕組まれ、市民が命を落とした、といったところでしょうか。ギャグやロマンスをはさみ、クライマックスの戦闘シーンで派手なアクションを入れたのが、「商業映画的すぎる」と韓国では問題になったそうです。たしかに、私も手あかの付いた演出にはドン引きしましたが、同時に、どこの国でも、革命家は、純粋に映画を楽しめない、かわいそうな人たちなんだなあ、と感じ入りましたことよ。
「スルース」★★
うーん、ケネス・ブラナー監督、リメイクに失敗してますね。ジュード・ロウの印象が強すぎるんです。殺し屋から男娼までの大きな振り幅の演技を90分の映画でたたみかけるのですが、どこかに「僕って、こんなに演技派なんだよ、見て見て」という過剰な自意識が感じられる。大仰なセリフによる会話を、叫ぶように続ける男二人。舞台劇の体裁を脱しておらず、わざわざ映画にしてみる必然性を感じませんでした。
「ハーフェズ ペルシャの詩」★★★★
大好きです、こういう映画。舞台は現代のペルシャ。でも、詩の預言性が生きていて、どこか神話のような骨格をなす物語に目が離せなくなった。麻生久美子は「え?出番これだけ?」な扱いですが、東洋から来たアイデンティティ・クライシスを抱えるお姫様を、豊かに表現していてよかった。
「ファストフード・ネイション」★★★★
ラストシーンにカタルシスはなく、不全感ばかりが残る後味のわるーい映画(いわゆるいつものリチャード・リンクレイター節)ですが、食のグローバリゼーションって、そういうことなんだから、しょーがないよね。アメリカのハンバーガーに大腸菌が混ざっていた。その最大の原因は低賃金・未熟練のメキシコ移民が事故を承知で、牛の解体を請け負っているからで……という展開。見ながらずーっと、「これって、ギョーザのことだよね」と思っていました。日本人は、中国人民を搾取しているという自覚をもっとちゃんと持った方がいいです。サヨク学生諸君が、「これが、国家安全法に抵触するテロ行為だ」と牧場の柵をのこぎりで切って、牛を逃がして資本家に打撃を与えようとするが、牛が思うように柵の外に出てくれない場面。めっちゃ笑わせていただきました。
「全然、大丈夫」★★★
最初から最後まで声を上げて笑ってました。ギャグが小ネタやダジャレのレベルを超え、本格直球勝負。荒川良々の邪悪な部分が遺憾なく発揮されている。とてもイヤなやつなんだけど、それこそ“憎みきれないロクデナシ”で、いつしか応援しちゃってるんだよね。
2008年3月6日(木) なんで映画を観るのか?
掲示板がやや荒れているので、改めて、私の映画鑑賞の評価軸(なんつーほど、たいしたものではありませんが)を、書いてみる。
ミクシィの方で知り合った内科医は激務の合間を縫って「元気をもらうため」に映画を観に行くという。
そのでんで言うと、私は、見たことのないもの、いままで見えなかったものを「発見」するために、映画を観に行くんです。
たぶん、日頃から、できる限り短い文で、できる限り正確に、「誤読」の可能性をミニマムにして、文章を書くという仕事を生業にしている反動でしょう。
とにかく映画の解釈が「開かれて」いるものがいい。友人と観に行って、感想が全く異なるものの方がいい。「えー、気がつかんかったわ。あんた、そんなとこ観てたんかいな」とつっこみ合えるぐらい、多様な解釈が成立する映画。状況説明のセリフ抜きでぐいぐいと物語が進み、観終わって、わけがわからず、舞台となった街や製作国の現状を調べたりしながら、2日ほど、「あの場面が表象するものは何だったんだ?」「あの動物は何の比喩?」「画面の隅に置かれた壷の意味は?」と自分の中でこねくり回せる映画が好き。
映画が総合芸術といわれるゆえんは、そこにあると思うから。ある人へのレスで「映画」は「体験記」とはメディアとしての位相が違う、と私が書いたのはそういう意味です。
ドキュメンタリーや実録ものであるなら、私が知らなかった世界のことを、映像と音楽の粋を尽くして見せてくれるものが好き。今まで、私にはAと見えていた世界を、切り取り方一つでBと見せてくれるもの。俯瞰や鳥瞰、裏から見たり、脇役の視点から見たり、敵対勢力の側から見たり。これも、見終わって2日間ぐらい、ぐるぐると考える。
私が「実録・連合赤軍」を評価しないのは、先にも書いたようにこの映画に「新しい視点」を、「私は」見いだすことができなかったからです。
「彼らが『正当』だったとは思っていない。だがあらゆることは意思表示。ベトナム戦争、中国の文化大革命、パリ5月革命、日本では大学闘争や三里塚闘争があった。そういう時代背景をきちんと描かなければなぜ連赤が生まれたか分からない」という製作意図も、日中戦争中に強姦や殺戮を担った兵士が、「あなたは、大日本帝国の名の下に、無辜の民を殺したでしょう?」と後世の人に問いつめられた時、「そういう時代だったから、人殺しはしょうがなかったんだ」と弁明している構図と相似形に見えて仕方がなかった。で、観た結果、なんだか、その通りの映画だったな、という感想です(あくまで私の、ですよ)。
趣味嗜好には、鎖はつけられませんで、どんなに世人が「いい」という映画であっても、その水を馬(私)に無理矢理飲ませることは、できません。
ここに書きつづっているのは、私の趣味嗜好に基づく感想であって、一般的にどうとらえるのが適切かという絶対評価ではありません。だから、出資者や制作者からの「いちゃもん」はもう聞きません。
っていうか、まっとうな映画監督なら「作品は公開された時点で、観た人のものだから、どう観てもらっても結構。批判も否定もすべて甘受します」と言いますよ。某W監督もそう言っていた、と今日聞いて、ちょっとだけ見直しました。
2008年3月9日(日) タクシデルミア ★★★★★
どどど、どーしよー。いきなり今年の外国映画第1位が決まってしまった。
衝撃度でこれを上回る映画は今後、まずないと思われるが、しかし、いわゆる異形・異端・エロ・グロ・ナンセンスな映画で、これを1位にする(しかも婦女子が)のは、大いにためらわれる。
だけど、2日たっても、まだ各場面をありありと思い出すことができるんだよ。
ハンガリーの奇才、パールフィ・ジョルジ監督の2作目。
ハンガリーの剥製師・ラヨシュの父、祖父の系譜をたどり、ラヨシュが自分を剥製にするまでの物語。
ラヨシュの祖父モロジュゴバーニは、第2次世界大戦の1兵卒。上官の家の下僕として働き、納屋に住む。人一倍強い性欲は、勃起した陰茎の先から火を噴くほど(これが冒頭場面で、しかも異常なまでの凝ったアングルなのだから、笑わせてくれる)。上官の娘2人や、「マッチ売りの少女」の飛び出す絵本が、モロジュゴバーニの「おかず」。ある日、上官の妻(とシンクロする豚の遺体)と交接。上官の妻が産んだ男の子には豚のしっぽが生えていた。上官はしっぽをペンチで引きちぎり、モロジュゴバーニの頭を銃で吹き飛ばす。
男の子は成長し、社会主義下の大食いアスリート、カールマーンに成長した。カールマーンは向かうところ敵なし、といいたいところだが、ソ連の選手にだけは負け続ける運命。大量に喰い、大量に吐く。カールマーンは、やはり大食いアスリートのギゼラと結婚。新婚の席を抜け出したギゼラが、カールマーンのチームメイトと野外ファックをして、生まれた子供がラヨシュだ。
ラヨシュはハンプティ・ダンプティよりも激しく肥満した父の面倒を見るのがうとましくなり始めていた。過去の栄光である大食い大会のビデオをみながら、銀紙も向かずにチョコレートバーをむさぼり続けるカールマーンと大げんかになり、ラヨシュは数日、父の家に来るのをやめる。久しぶりに訪れると、飼い猫が父の腸を引きずり出し、むさぼり喰っていた。ラヨシュは父を剥製化し、自らを剥製にする機械を組み立て、皮をはぎ、血をぬき、縫合し……すべてが終わったところで、機械が首をはねる。
性欲、食欲、支配欲の三欲を父子3代が象徴しているともいえる実は哲学的なバックグラウンドを持つ(たぶん)。3人は軍国主義、社会主義、社会主義以後という体制の変化も背負っている。
でも、主題を難しく考えるのが、あほらしくなるほど、画が圧倒的なのだ。風呂桶が回転するごとに、中に入っているものが、新生児から死体に切り替わる。どうやって撮ったのか。グリーナウェイもまっつあおな凝り凝り映像。マッチ売りの少女のポップアップ絵本に、登場人物として入り込むモロジュゴバーニが射精をすると、精子は夜空の星になって輝く。このバカバカしさ。
自分を剥製にする機械のメカニックのまがまがしくも、シンプルな造型。臓器から血を抜き、筋肉を切り裂き、内臓の表皮をはいでいく画像までが、グロい中に、ぎりぎりの美しさを保っているのだ。
大丈夫な人は「必見」。大丈夫でない人は、最初から観ない方がいいでしょう。
2008年3月18日(火) 3月前半に観た映画・その1
「いつか眠りにつく前に」★★★★
男の人にとって、父親のひげをそってやるというシチュエーションが涙腺刺激ものなら、この映画の、幼児を育てている時の女性のどうにもならなさを、自分が母親になってから娘が感じ入る場面は、女性の涙壺をツンツンしてやまないシチュエーションでしょう。演出が丁寧で、母=娘のキャストリレーもごく自然。まあ、親子共演を使いすぎている、という批判はあるでしょうが。
「ガチ☆ボーイ」★★★★
大穴。小泉徳宏監督の若さを生かした素直な撮り口に好感がもてる。主人公が高次脳機能障害により記憶が続かないというネタを割と早い段階で割って、その後の親子、恋愛、友情にじっくり時間を割いた。「タイヨウのうた」の時もそうだったが、病気の秘密をクライマックスに持ち越さないところが、映画を前向きにしている。メーンイベントの「3、2、1」「おおっと、2で返した〜!」の繰り返しが、ボディブローのようにきいてきて、どんどん観客が乗せられていく。客席にいて、周囲がヒートアップしていくのを体感できるのは年に1作か2作で、その意味で今年の「客席一体感」賞をあげるとすれば、コレになるんでしょう。おもしろかった。もう1回観たいな。
「ぐるりのこと」★★★★★
本年度、邦画ナンバーワン(現時点)。最初、あけすけに性生活のことを語る若いカップル、カナオ(リリー・フランキー)と祥子(木村多江)の軽妙なやりとりで始まる。橋口亮輔監督、相変わらず、こういうの、うまいな。この調子でずっといくのかな、と思いきや、一転、カップルの間の子どもが死産に終わってしまう。それからの2時間で、喪失と癒しをなんと、9年間の世相とリンクさせながら、語り切る。
法廷画家というカナオの職業が効いている。宮崎勤事件、サリン事件、音羽幼女殺害、池田小事件。実在の事件をモデルにした法廷で、カナオは判決の重軽に論評するわけでも、正義の筆をふるうわけでもなく、ひたすら、世間では「人非人」とののしられる、どこに感情があるかわからない、被告人の手や横顔をスケッチし続ける。
祥子の方は寺で茶を習い、やがて、住職に「天井に日本画を描いて」と頼まれる。植物をスケッチし、色をのせていく作業を通して、次第に生気を取り戻していく。
合間合間の感情の高ぶりがアクセントになっているが、全体としてきわめて低温で静か。不信感がうずまく世の中で、人と人の間に希望を見いだそうという監督の意図が、すとんと胸に落ちる。
2008年3月23日(日) 魔法にかけられて ★★★★
ディズニー、おそるべし。
絵本(アニメ)のお姫様と、それを追って王子様が独特のコスチュームのまま、現代ニューヨークにやってくる、というズラしだけなら、別にどうということもない。でも、お姫様が王子をうっちゃって、現代ニューヨークで出会った、ロマンチシズムは時間の無駄と思っている割には出世もしていない、さえないバツイチコブツキ男にほれちゃうという結末のぶっ飛び方!これにまず拍手!!
そして、魔法の国から、お姫様と王子様を追ってきた魔女が、バツイチコブツキ男をがっとつかんで、龍になってエンパイアステートビルを駆け上り、「男を返してほしければ、ここまで来い」と言う。すると、お姫様がドレス姿で、うんしょこうんしょこ、ビルの壁面を登っていくのだ。うはははは。
ジェンダーを反転させて、ポリティカリー・コレクトネスを追求すると、こういう話になるんだよ、バカヤローという制作者のやけっぱちが聞こえてきそうである。そして、明らかにこの作り手は、『バカヤロー状態』を楽しんでいる。
主人公のジゼルを演じたエイミー・アダムスが、「姫」で「処女」の設定ながら、実は33歳という小じわビジュアルなことからも、制作者の「確信犯」(←誤用)ぶりが、よくわかる。
とにかく、子どもに見せるのにはもったいない快作であります。